横浜外国人墓地の成り立ち
横浜外国人墓地 略史(「資料館建設計画」及び「横浜外国人墓地について」より抜粋)
「黒船」4隻を従えたペリー提督は1853年(嘉永6年)三浦半島の久里浜に上陸して幕府に米国大統領フィルモアの国書を渡し開国を迫りました。
翌、1854年ペリーは開国交渉のため7隻の艦隊を組織して再び来日しました。
このとき艦隊の中の一隻ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという24歳の二等水兵が墜死し、この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地をペリーは幕府に要求しました。
協議の後、幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが大震災で全焼した)の境内の一部を提供することにしました。
ペリーの要求した「海の見える地」という条件にも合い、ウィリアムズはここに埋葬されました。
これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなります。
日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後にここに移されました。
現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が埋葬されています。
横浜開港後の1859年(安政6年)に攘夷派の武士に本町で殺害されたとみられるロシア使節ムラビヨフの艦隊乗組士官ローマン・モフェトとイワン・ソコロフの二人が、増徳院に隣接する地に埋葬されました。
これらの墓は、現在の22区(元町側通用門/ルゥーリー記念門付近)に当たり外国人墓地として諸外国に貸与された最初の墓区となっていきました。
開国が進み来日する外国人が増加すると共に、日本で亡くなる外国人も増えていきました。 このため増徳院の外国人埋葬地と日本人埋葬地は区別がつきにくくなり、1861年(文久元年)に外国人専用の墓域を定めるために日本人墓地が移転されました。 現在の元町側通用門付近の墓域がこのとき定められた外国人専用のもので、薩英戦争の原因となった1862年9月の生麦事件の犠牲者チャールズ・リチャードソンの墓などがある最も古い区域となったのです。 この後1863年10月カミュ殺害の井土ヶ谷事件、1864年11月のボールドウィンとバードが殺害された鎌倉事件と続きますが、次第に殺害事件は治まっていきました。 1864年(元治元年)横浜居留地覚書き書が幕府とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの各国公使との間で締結され、墓域の拡張が認められることになり増徳院の上の高台に新たに一区域が設けられました。 さらに1866年(慶応2年)横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書が締結され、ほぼ現在の墓域まで拡張されました。
維新直後の1869年(明治2年)外務省は各国領事館に書翰(書簡)を送り、「外国人墓地は従来通り無代で貸し渡すが、維持・修理などの費用は今後は各国領事団で負担して欲しい」旨を伝えました。 これを受けて各国領事団は1870年(明治3年)管理委員会を結成し、外国人墓地の管理運営を委譲することとなったのです。 横浜外国人墓地の管理委員会は1900年(明治33年)4月に財団法人横浜外国人墓地として法人化(2013年1月公益財団法人移行)され、およそ150年近く墓地の管理を続けて現在に至っています。 補足として、 1871年(明治4年)には清国人(現中国人)の墓地は中区大芝台へ移されました。 関東大震災の後に増徳院も平楽に移転して横浜外国人墓地は現在のような 22区5600坪(約18,500㎡)の墓域となりました。 また関東大震災により大半が焼失した埋葬記録も、最近になって5000柱を越す記録となりましたが墓石数は3000程度となっています。